太祖 天武帝

天武帝


天武天皇 -日本神話の組み立ての面から

天武天皇と『古事記』との関係は、太安万侶作とされるその序文中に記されていることであるが、その序文の真憑性の問題や、『日本書紀』の天武10年の記事に見える、中臣大島らによる「帝紀および上古の諸事」の「記定」の記事との関係の有無の問題などが、長い間研究者の重要な論議の争点であった。私はこの問題をいささか離れて、『古事記』神代巻の全体の構成の 面から天武との関係を考えて見たい。
松村武雄がかつて『記』『紀』の神代巻の構成について、説明群が空間的 に横に接続することなく、すべてが時間的・因果 的に縦につながり、究竟に は、皇祖神アマテラスの絶対性やその子孫の「日の御子」による国土統治の由来を語る、一貫した筋立てになっていて、全体が整然と配列されているこ とを指摘し、これが、ある時期の大和朝廷の少数貴族による作成だと断じたことは、妥当であるが、但しそれは、『記』『紀』を通 じての共通特色では なく、『古事記』のみに見られる構成なのである。『日本書記』の神代巻は 、各章・各段ごとに、朝廷公認の伝承を立て、これを本文とし、これに数多 くの氏族伝承らしき「一書ニ曰ク」の説話をならべている。また各章の本文間には、何の連絡の因果 関係も見られず、互いにばらばらである。この『日 本書紀』の構成は、明らかに会議制によって編纂されたもので、各章ごとに編纂指導者が変わり、そこでの基準を定めて、「本文」を定め、後は史料提 供者や会議参加者の顔を立てて、そのまま「一書曰」という形でならべられたものである。これから見ると、『古事記』の方は、あらゆる異伝を、国家 的理念の下に、ばっさりと切り継ぎ一貫させ、寸分のすきもない。「記序」に、天武帝が帝紀・本辞を、「削偽、定実」という形で、切り継ぎしたとい う記事と一致する。こんな点からも、天武10年の「記定」の記事は、明らかに会議制によったもので、『古事記』とは関係ない。
舎人稗田阿礼の誦習とは、こうして出来上がった天武の独創による「原古事記」の文を、声にふしをつけたり、アクセントをつけて、繰返し覚えたこ とであったろう。この男女論争が古くから問題にされたが、恐らくこの人物は、天武の死後、死亡していたから、和銅の編纂のころは、性別 さえも不明 となったのだろう。それにしても、この猿女(さるめ)氏は女性色の強い家であったから、アメノウズメを祖神とし、『古事記』の中に大活躍させてい る。アマテラス神話を、あれほど大きいものとした『古事記』は、恐らく猿女君氏が伊勢から持ちこんだものであろう。この大神の崇拝が、宮廷とのつ ながりを持ったのは、やや古く、6世紀の継体朝ごろと思われるが、もっと具体的になって、より古くからの皇祖神タカミムスビを押しのけて、高天原 パンテオンの主神となったのは、天武朝だと思われる。天照は壬申の乱のとき、神異を現じて、天武を助けた。乱後天武は斎王制 を再興し、伊勢神宮を国家の大廟と定め、この神を中心とする神統譜を作り、その理念の下に、新しい神話体系を打ち建てようとして、「原古事記」の 編纂を志したのであろう。『日本書紀』には、これほどのアマテラス的色彩 は見られない。天孫降臨のときの命令者ですら、アマテラスではなく、タカ ミムスビとなっているのが、『日本書紀』本文の伝承なのである。この天武の遺志を継いだのが、その大后の持統女帝であり、その理念を、 祭祀制度として打ち建てようとして、律令制が整備されて行ったのである。柿本人麻呂などの宮廷歌人も、その理念の大きな宣伝者であったと言えよう。


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